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初代ピアノ屋岡野勇仁「心はいつもほっかほか。」



レイ・クロックの映画を観た。面白かった。

マクドナルドを世界に広めた男、レイ・クロックの伝記映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』を観た。
この映画は面白くて感動した。
まず題材抜きに映画としての構成とか演出とか脚本が完璧で、最初から最後まで一気に観れてしまう。そこがまずすごい。
ちなみにこの映画のあと、ジャンゴ・ラインハルトの伝記映画を観たのだが、題材はジャンゴ・ラインハルトと最高なのに、構成とか演出とか脚本がひどくてひさびさに面白くない映画を観てしまったな、と衝撃を受けたのと対照的である。

ご存知の通り、マクドナルドは、マクドナルド兄弟があの早焼きシステムを開発、創業したもので、マクドナルドを素朴な田舎の家族経営風手作り系ショップにしたかったマクドナルド兄弟の反対を押しきるかたちでレイ・クロックというカリスマプロモーターが人類レベルのチェーンへと拡大し、覇権を握ったハンバーガー店である。
映画では、最初の方でマクドナルド兄弟の弟リチャードが開発した現在のハンバーガー製造システムに出会って超衝撃を受けるレイ・クロックが描かれるのだが、これがなんというか神の啓示を受けるがごとくなのである。
これはアメリカ全土に、そして世界に広めなければならない!という感じで。
そこからとりつかれたように事業を拡大し、その度にマクドナルド兄弟と衝突し、最終的にはマクドナルド兄弟から買い取るというところまでいく。
マクドナルドを買い取るシーンなどはビル・ゲイツがMS-DOSの前身QDOSをティム・パターソンから買い取るところを思い出してしまう。

この映画には神の啓示が2度あらわれる。
最初は、マクドナルド弟リチャードへのハンバーガーシステムの啓示だ。
リチャードはまぎれもない天才であり、あのハンバーガーシステムを中世の画家が絵画を描く時のように、ハッキリとしたヴィジョンとして受け取りテニスコートを使って早焼きの練習をするなど、実際に現実化するのである。
そしてレイ・クロックはこれは広めねばならぬ、と啓示を受け布教するのだが、そして布教の過程でマクドナルドという宗教の開祖は、マクドナルド兄弟ではなくレイ・クロックに段々となってきてしまう、という宗教特有の現象も起きてくる。
そしてそのマクドナルド像というのは、創業者のマクドナルド像とまったく正反対に変化してしまう、というのも組織の歴史にはよくある現象である。
この映画を観ると資本主義の権化のレイ・クロックとその思想の表現である「現在の」マクドナルドに嫌気がさしたり、やっぱり嫌だな、と思う人も多いかもしれないが、レイ・クロックがマクドナルド兄弟に出会ってからのとりつかれたかのようなパワーの噴出の描き方や、もしレイ・クロックがいなかったらマクドナルドは近所の人以外誰も知らない片田舎のハンバーガーショップになっていたかもしれないという想像を喚起させたりするところ等やはり興味深い名作と言えると思う。

# by 11piano | 2019-01-04 09:07

映画「セデック・バレ」をやっと観た。

前から観よう観ようと思っていた映画「セデック・バレ」をやっと観た。

監督は「海角七号 君想う、国境の南」のウェイ・ダーションさんで、テーマは日本統治時代の台湾で実際に起こった霧社事件というセデック族の武装蜂起による惨劇を描いた映画で、2部合計4時間36分の長編である。

主人公は蜂起の指導者モーダ・ルナオ。

なんともすごい映画で、泣いてしまうほど感動してしまった。

ウェイ・ダーションさんは音楽でガッツリ泣かせるという大技を持っていて、そのパワーは「海角七号」におけるシューベルト「野ばら」でも存分に発揮されているのだが、この映画ではその音楽が原住民(風の)単旋律なので、完全に感動の渦にやられてしまう。

また、個人的にはこの監督の色使いや色の組み合わせはかなり好きだ。
この色合いには、すぐに映画の「その場所」へと観客を引き込むというマジカルなパワーがあるように思う。また俳優の表情をアップで撮るのもとてもうまい。
ウェイ・ダーションさんは、音楽、表情、色等映画の持つ古典的よさをしっかり出せる人なのだと思う。

映画の中で耳にするセデック族の言葉というのもこれまたなんともいい響きで、物語の味わいを深めている気がする。
よく考えるとヨーロッパ諸言語、アラビア語、中国語等のいわゆるマジョリティな言語以外の映画ってあまり観ないのだが、映画の中の言語によってやはり随分雰囲気が変わるなぁと思ったのだった。

ジョン・ウーさんが製作に入っているのでハリウッド風にカラッとしているとはいえ、殺戮シーンがかなり多いのでどんな人にもオススメ!というわけではないが、こりゃすごい映画だなぁと強く印象を受けた映画だった。

というところまでが短い感想で、下記はちょっと長めの感想。

「セデック・バレ」は日本統治下での、日本人と原住民との物語というなのだが、自分的にはあまりそういう人種や民族の衝突、とか言う印象はあまり感じず(もちろんそういう要素はかなりあるのだが)もっと壮大なスケールの、人類全体的なものを感じた。

この映画のようなことは、北米でも南米でもアフリカでもアラブでも世界中どこでも異民族のみならず同民族の間でも歴史に刻まれてきた悲劇で、その時人類はどのように対するのか、ふるまうのか、を凝縮した映画のように思える。
そういう意味では同じく自分が大好きな映画「ミッション」と「硫黄島からの手紙」と構造的には重なるところがあった。

「ミッション」は1750年頃、パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)の先住民グアラニー族へキリスト教を布教しにきた宣教師達がグアラニー族とは親密な関係になるのだが、奴隷貿易の政治的な思惑のなかで、スペイン・ポルトガル連合軍により、村ごと殲滅させられ、宣教師もグアラニー族もほぼ全員殉教するという映画。

「硫黄島からの手紙」は太平洋戦争時、日米の死闘がおこなわれた硫黄島で、栗林忠道陸軍大将率いる日本軍がほぼ全員「天皇陛下万歳」とともに殉死していく姿を描いたクリント・イーストウッド監督のアメリカ映画で、ストーリーの大半が日本兵のセリフで、それを英語字幕のアメリカ映画として公開したことで話題になった映画である。

どちらも超越的存在により死の意味を現世的世界観から解放するという意味で、共通したところがあり、このセデック・バレも同じくセデック族の宗教感、世界観を描ききることに成功しており、宗教学が好きな自分にとっては完成度の高い宗教映画のように「観えた」というのが総合的な感想である。

セデック族では敵の死者を先祖に供犠すると天国(のようなところ)にいくと信じられており、その信念体系がすべての行動原理になっている。
そのため、死を厭わない、無駄死にはならない、というロジックが発生し、先祖の住む国(神の国、霊的世界)という基準から現生を相対化するという、有史以後全世界の各地で見られる宗教的世界観がたちあがるのである。

お察しの通り、これはイスラーム原理主義(イスラーム教とは違う)におけるジハード(聖戦)の解釈を例に出すまでもなく危険でヤバイ感じなのである。マズくてよろしくないのである。
だがこの時に「不正」に対する「義」を通すための死、という要素が加わると美しさを感じてしまう、というのもこれまた人間の傾向で、これがなければ「新約聖書」にしろ「忠臣蔵」にしろ「スパルタカス」にしろなんにしろ膨大な量の物語の感動の説明がつかなくなってしまう。
とはいえ、やっぱりマズイよなぁとも思ってしまうのである。

ということでその辺りはひとまず置いておいて、この映画に感動した大きなポイントは他にもあって映像と音楽がムチャクチャ美しい!いい!ということである。

特にいかにも原住民の踊り、みたいのを、モーナ・ルダオとか若者が歌いながら踊るところが、美しくて涙なくして見れない感じである。あの歌と踊りは、「なんか現代が失ったもの」が全部含まれているようで感動した。

またその時歌う小泉文夫型テトラコルドっぽい単旋律(時に対位法含む)の歌とか同じく単旋律無伴奏の女性の悲しみの歌みたいなのも、リアル原住民の歌じゃなくて、多分リッキー・ホウさんが原住民の歌っぽく作曲したやつだと思うのだが、これがまたメチャクチャよくて泣ける!のである。
セデック族の人が話す言葉もなんだかネイチャーな感じでよい響きだ。

多分この映画の感動の中心点は、有史からの狩猟文化と現代国民型国家の相克と対立の悲しいバラードであり、それがこの映画の音楽の中で象徴的に表現されているのではないかと思うのである。

# by 11piano | 2017-12-08 10:11

千夜一夜シリーズのスペインナイト。

門前仲町ChaabeeでおこなわれたTreckTreck主催の千夜一夜シリーズのスペインナイトへ行ってきた。
40人前のパエリアをつくることができるフライパンと車とともに『旅するパエリア』というプロジェクトをしている「あそびとくらし○△□」というユニットの2人組と一緒に、食材を仕込み、できあがったパエリアを食べながらスペインの方にスペインのことを教えてもらうというかなり充実した内容であった。
スペインの方はお2人ともカタルーニャの方で、カタルーニャの話しをたくさん聞くことができた。
アナ・サン・ガブリエルさんは、味の素に勤めている方で、スペインの1日の食事メニューを詳細に解説。
マーケティングディレクターのザビエル・ルナさんは深川への情熱がものすごい人で、深川を中心に日本各地の街をアピールする仕事やスペインの地元のアンティチョークを紹介する仕事をしている方で、360度カメラの写真家でもある。
スペインナイトということでオイラもスペインピアノ曲の超定番グラナドスのスペイン舞曲集「アンダルーサ」とアルベニスの「タンゴ」を演奏。
その国の方の前で、その国のピアノ曲を弾くこともあるのだが、その国の音楽であっても、クラシックのピアノ曲というジャンルに興味があって日常的に触れている人でなければ「へ~。ほ~。パチパチ」という感じでわりと反応がないのだが、昨日は、「家族がグラナドス好きでカタルーニャのこと思い出しました!」とアナさんに言われたのでうれしかった。
ファリャの曲は弾かなかったのだが、グラナダに行った時ファリャの住んでた家を見たことを思い出したり、この前チェロの五十嵐あさかさんとファリャのスペイン民謡を弾いたり、昼はイルマ・オスノさんがスペイン語でしゃべっていたのを聞いていたりしてなんとなくスペインつながり感のある一日だった。
深川愛に溢れたスペインの方にお会いしたり「あそびとくらし○△□」の藤原さんが佐近田さんの教え子だと知り、びっくりうれしかったりとエキサイティングなイベントだった。

# by 11piano | 2017-12-08 10:05

イルマ・オスノさんのレクチャーに感動。

イルマ・オスノさんと早稲田大学藤田教授によるペルーのアヤクーチョ地方やケチュア語文化圏についてのレクチャー「アンデスをわたる声」を聴きに渋谷青山の國學院大学へ。
会場はラテンアメリカ研究業界?の人で満席。
みんな真剣に聞いていてすごい熱気だった。
オスノさんはアヤクーチョ地方ウアルカス村の出身だが、センデロ・ルミノソ関係の内紛等により、首都リマに移住した後、現在は日本の秩父に在住している音楽家である。
ケチュア語文化圏を広く紹介した研究者ホセ・マリア・アルゲダスの文献を中心にレクチャーは展開。
アヤクーチョ地方の祭儀における歌や踊りの詳細な解説がおこなわれた。
アヤクーチョでは、滝に人魚が住んでいると考えられていてその人魚の声を聞いて曲として紡ぐ、という話しなど胸キュンな話しが多かった。
またアヤクーチョの歌も、だんだんおばあちゃんしか歌えないようになっていて、「みなさん是非ケチュア語の歌を研究してください」と会場の人に話していたのも印象的だった。

レクチャーの最後には弦楽器弾き語りによる歌と踊りがあってこれまた鳥肌が立つほどすばらしかった。
全体的にアヤクーチョ地方やケチュア語文化圏のすばらしさもさることながら、イルマ・オスノさんという芸術家の、音楽性と人間性の高さに感動したレクチャーだった。


# by 11piano | 2017-12-08 10:04

甲野善紀先生の講座を受ける。

この前、前からずっと行こうと思いつつ日程のあわなかった甲野善紀先生の「音楽家のための身体操法講座」へ行ってきた。
フルーティスとの白川真理女史のオーガナイズ・プロデュースの講座である。

甲野先生は古武術の方法論をスポーツや生活、介護等にも応用している方で、その武術の方法論を音楽家の身体運動に応用してみる、というのがこの講座の内容だ。
まずは最近の研究内容の紹介ということで、「呼吸を消す」の説明を受ける。
呼吸をとめる、とか腹式呼吸、丹田呼吸を意識するのではなく、「消す」というわけである。これは忍者とかの「気配を消す」に近いようなイメージであった。
その後は、有名になっているヒモトレの実演。
ひもをやわらかく締めたり、たすきがけにしたり、足や手首にかけたりするだけで、屈伸で床から10cmぐらいまでしか届かなかった人がペチャっと床に着くようになったり、歌手やヴァイオリンやテルミン(!)の演奏者の音を聴きながら、「では肩にもかけてみましょう」「あ、こちらにもかけてみましょうか」とヒモをかけていくだけであれよあれよと出音が確かに響き豊かに変わっていく。
途中、こういう姿勢で、とかここを意識して、とかの指示はなく、とにかくヒモだけかばんいっぱい大量に用意してあって、サッサッとかけたりちょっと結ぶだけなのだ。
こりゃ摩訶不思議、と魔法のような感じであった。
演奏公開レッスンの前にも、座ってる人を持ち上げるというのがあって、何もしていないビフォアーはフルパワーでうんこらしょ!とやっとのことで持ち上がるのが、ひもをちょろっと結んだだけで、さっと人が持ち上がる、という実習もあった。

テコの原理のような物理的原則に則って運動すると少ないエネルギーで運動することができる、というような現象がある。
人間の身体には、そういう無駄な力やエネルギーを使わず、強力なパワーを発する機能や筋力が本当はたくさんあって、現代人はその機能がかなりoffになっているのではないか。
その機能や筋力を意識させてonにするのがこのヒモなのでは、と自分の観た感想ではそう感じた。

実際上述のビフォアアフターを2回繰り返す時があり、その時ヒモをかけた後、もう1度ビフォアーの無駄な力が入る状態にもどすために別の運動をしてもらい、「はい。これで(無駄な力が入る)元の状態にもどりましたのでもう1回ヒモをかけてみましょう」というヒモ効果をリセットするという印象的なシーンがあった。
逆にいえば訓練や習慣化をすると、常にそのような機能をonにできるのでは、ないかと思う。

こういうものは文章を読んでもなかなかわからず、ノンバーバルコミュニケーションの部分の情報量がすごいく多いので、ご本人が同じ部屋にいて動いている、というだけでかなりの情報量だったのでとにかく面白かった。
また現代の日本人の固定観念とはまったく違う世界なので、魅力的で新鮮だった。

一番印象的だったのは、このような動きは、昔の日本人は生活の中で自然にやっていて、それを子供が真似ていたので、意識せずとも習得していた、との解説。それが今は断絶されてしまっているとのこと。
たしかに甲野先生のような人が江戸時代、明治時代中期ぐらいまではたくさんいて、それが日本人の身体的強度をかたちづくっていたのではないかと思う。
実はこれは、日本人の身体性のみならず、音楽の習得にも関わる「音楽をする肉体の伝承」の話しであって、これはKPM、バッキバの廣瀬さんとよく話している題材である。
子供は大人の身体の動きを観て真似る、それがあらゆる世界の音楽の基本であり、根幹である。
なので大人がパーティーのたびに踊っていたり、礼拝のたびに歌っていれば、訓練とはまた別の素養が体にフィールして入るのである。
日本人が西洋音楽と対峙する時は必ずその「音楽をする肉体の伝承」の欠如に対する補充の様式が必要となってくる。
そのような意味でも「音楽家のための身体操法講座」は日本人の身体性の復帰への問いかけに満ちたわかりやすい講座だった。

講座の最後の方でテルミン奏者が公開レッスンを受けたのだが、その時甲野先生も是非、ということでテルミンを演奏。甲野先生がテルミンを演奏するのはもちろん初めてなのだが、武術家だから体がまったくぶれず、音程がビチっと一発でねらったところに当たる。これはなんとも説得力のあるすごい景色だった。


# by 11piano | 2017-11-13 09:50


超絶トランスピアニスト岡野勇仁のブログっす~。 http://www.11piano.com/

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