初代ピアノ屋岡野勇仁「心はいつもほっかほか。」



映画「セデック・バレ」をやっと観た。

前から観よう観ようと思っていた映画「セデック・バレ」をやっと観た。

監督は「海角七号 君想う、国境の南」のウェイ・ダーションさんで、テーマは日本統治時代の台湾で実際に起こった霧社事件というセデック族の武装蜂起による惨劇を描いた映画で、2部合計4時間36分の長編である。

主人公は蜂起の指導者モーダ・ルナオ。

なんともすごい映画で、泣いてしまうほど感動してしまった。

ウェイ・ダーションさんは音楽でガッツリ泣かせるという大技を持っていて、そのパワーは「海角七号」におけるシューベルト「野ばら」でも存分に発揮されているのだが、この映画ではその音楽が原住民(風の)単旋律なので、完全に感動の渦にやられてしまう。

また、個人的にはこの監督の色使いや色の組み合わせはかなり好きだ。
この色合いには、すぐに映画の「その場所」へと観客を引き込むというマジカルなパワーがあるように思う。また俳優の表情をアップで撮るのもとてもうまい。
ウェイ・ダーションさんは、音楽、表情、色等映画の持つ古典的よさをしっかり出せる人なのだと思う。

映画の中で耳にするセデック族の言葉というのもこれまたなんともいい響きで、物語の味わいを深めている気がする。
よく考えるとヨーロッパ諸言語、アラビア語、中国語等のいわゆるマジョリティな言語以外の映画ってあまり観ないのだが、映画の中の言語によってやはり随分雰囲気が変わるなぁと思ったのだった。

ジョン・ウーさんが製作に入っているのでハリウッド風にカラッとしているとはいえ、殺戮シーンがかなり多いのでどんな人にもオススメ!というわけではないが、こりゃすごい映画だなぁと強く印象を受けた映画だった。

というところまでが短い感想で、下記はちょっと長めの感想。

「セデック・バレ」は日本統治下での、日本人と原住民との物語というなのだが、自分的にはあまりそういう人種や民族の衝突、とか言う印象はあまり感じず(もちろんそういう要素はかなりあるのだが)もっと壮大なスケールの、人類全体的なものを感じた。

この映画のようなことは、北米でも南米でもアフリカでもアラブでも世界中どこでも異民族のみならず同民族の間でも歴史に刻まれてきた悲劇で、その時人類はどのように対するのか、ふるまうのか、を凝縮した映画のように思える。
そういう意味では同じく自分が大好きな映画「ミッション」と「硫黄島からの手紙」と構造的には重なるところがあった。

「ミッション」は1750年頃、パラナ川上流域(現在のパラグアイ付近)の先住民グアラニー族へキリスト教を布教しにきた宣教師達がグアラニー族とは親密な関係になるのだが、奴隷貿易の政治的な思惑のなかで、スペイン・ポルトガル連合軍により、村ごと殲滅させられ、宣教師もグアラニー族もほぼ全員殉教するという映画。

「硫黄島からの手紙」は太平洋戦争時、日米の死闘がおこなわれた硫黄島で、栗林忠道陸軍大将率いる日本軍がほぼ全員「天皇陛下万歳」とともに殉死していく姿を描いたクリント・イーストウッド監督のアメリカ映画で、ストーリーの大半が日本兵のセリフで、それを英語字幕のアメリカ映画として公開したことで話題になった映画である。

どちらも超越的存在により死の意味を現世的世界観から解放するという意味で、共通したところがあり、このセデック・バレも同じくセデック族の宗教感、世界観を描ききることに成功しており、宗教学が好きな自分にとっては完成度の高い宗教映画のように「観えた」というのが総合的な感想である。

セデック族では敵の死者を先祖に供犠すると天国(のようなところ)にいくと信じられており、その信念体系がすべての行動原理になっている。
そのため、死を厭わない、無駄死にはならない、というロジックが発生し、先祖の住む国(神の国、霊的世界)という基準から現生を相対化するという、有史以後全世界の各地で見られる宗教的世界観がたちあがるのである。

お察しの通り、これはイスラーム原理主義(イスラーム教とは違う)におけるジハード(聖戦)の解釈を例に出すまでもなく危険でヤバイ感じなのである。マズくてよろしくないのである。
だがこの時に「不正」に対する「義」を通すための死、という要素が加わると美しさを感じてしまう、というのもこれまた人間の傾向で、これがなければ「新約聖書」にしろ「忠臣蔵」にしろ「スパルタカス」にしろなんにしろ膨大な量の物語の感動の説明がつかなくなってしまう。
とはいえ、やっぱりマズイよなぁとも思ってしまうのである。

ということでその辺りはひとまず置いておいて、この映画に感動した大きなポイントは他にもあって映像と音楽がムチャクチャ美しい!いい!ということである。

特にいかにも原住民の踊り、みたいのを、モーナ・ルダオとか若者が歌いながら踊るところが、美しくて涙なくして見れない感じである。あの歌と踊りは、「なんか現代が失ったもの」が全部含まれているようで感動した。

またその時歌う小泉文夫型テトラコルドっぽい単旋律(時に対位法含む)の歌とか同じく単旋律無伴奏の女性の悲しみの歌みたいなのも、リアル原住民の歌じゃなくて、多分リッキー・ホウさんが原住民の歌っぽく作曲したやつだと思うのだが、これがまたメチャクチャよくて泣ける!のである。
セデック族の人が話す言葉もなんだかネイチャーな感じでよい響きだ。

多分この映画の感動の中心点は、有史からの狩猟文化と現代国民型国家の相克と対立の悲しいバラードであり、それがこの映画の音楽の中で象徴的に表現されているのではないかと思うのである。

[PR]
# by 11piano | 2017-12-08 10:11

千夜一夜シリーズのスペインナイト。

門前仲町ChaabeeでおこなわれたTreckTreck主催の千夜一夜シリーズのスペインナイトへ行ってきた。
40人前のパエリアをつくることができるフライパンと車とともに『旅するパエリア』というプロジェクトをしている「あそびとくらし○△□」というユニットの2人組と一緒に、食材を仕込み、できあがったパエリアを食べながらスペインの方にスペインのことを教えてもらうというかなり充実した内容であった。
スペインの方はお2人ともカタルーニャの方で、カタルーニャの話しをたくさん聞くことができた。
アナ・サン・ガブリエルさんは、味の素に勤めている方で、スペインの1日の食事メニューを詳細に解説。
マーケティングディレクターのザビエル・ルナさんは深川への情熱がものすごい人で、深川を中心に日本各地の街をアピールする仕事やスペインの地元のアンティチョークを紹介する仕事をしている方で、360度カメラの写真家でもある。
スペインナイトということでオイラもスペインピアノ曲の超定番グラナドスのスペイン舞曲集「アンダルーサ」とアルベニスの「タンゴ」を演奏。
その国の方の前で、その国のピアノ曲を弾くこともあるのだが、その国の音楽であっても、クラシックのピアノ曲というジャンルに興味があって日常的に触れている人でなければ「へ~。ほ~。パチパチ」という感じでわりと反応がないのだが、昨日は、「家族がグラナドス好きでカタルーニャのこと思い出しました!」とアナさんに言われたのでうれしかった。
ファリャの曲は弾かなかったのだが、グラナダに行った時ファリャの住んでた家を見たことを思い出したり、この前チェロの五十嵐あさかさんとファリャのスペイン民謡を弾いたり、昼はイルマ・オスノさんがスペイン語でしゃべっていたのを聞いていたりしてなんとなくスペインつながり感のある一日だった。
深川愛に溢れたスペインの方にお会いしたり「あそびとくらし○△□」の藤原さんが佐近田さんの教え子だと知り、びっくりうれしかったりとエキサイティングなイベントだった。

[PR]
# by 11piano | 2017-12-08 10:05

イルマ・オスノさんのレクチャーに感動。

イルマ・オスノさんと早稲田大学藤田教授によるペルーのアヤクーチョ地方やケチュア語文化圏についてのレクチャー「アンデスをわたる声」を聴きに渋谷青山の國學院大学へ。
会場はラテンアメリカ研究業界?の人で満席。
みんな真剣に聞いていてすごい熱気だった。
オスノさんはアヤクーチョ地方ウアルカス村の出身だが、センデロ・ルミノソ関係の内紛等により、首都リマに移住した後、現在は日本の秩父に在住している音楽家である。
ケチュア語文化圏を広く紹介した研究者ホセ・マリア・アルゲダスの文献を中心にレクチャーは展開。
アヤクーチョ地方の祭儀における歌や踊りの詳細な解説がおこなわれた。
アヤクーチョでは、滝に人魚が住んでいると考えられていてその人魚の声を聞いて曲として紡ぐ、という話しなど胸キュンな話しが多かった。
またアヤクーチョの歌も、だんだんおばあちゃんしか歌えないようになっていて、「みなさん是非ケチュア語の歌を研究してください」と会場の人に話していたのも印象的だった。

レクチャーの最後には弦楽器弾き語りによる歌と踊りがあってこれまた鳥肌が立つほどすばらしかった。
全体的にアヤクーチョ地方やケチュア語文化圏のすばらしさもさることながら、イルマ・オスノさんという芸術家の、音楽性と人間性の高さに感動したレクチャーだった。


[PR]
# by 11piano | 2017-12-08 10:04

甲野善紀先生の講座を受ける。

この前、前からずっと行こうと思いつつ日程のあわなかった甲野善紀先生の「音楽家のための身体操法講座」へ行ってきた。
フルーティスとの白川真理女史のオーガナイズ・プロデュースの講座である。

甲野先生は古武術の方法論をスポーツや生活、介護等にも応用している方で、その武術の方法論を音楽家の身体運動に応用してみる、というのがこの講座の内容だ。
まずは最近の研究内容の紹介ということで、「呼吸を消す」の説明を受ける。
呼吸をとめる、とか腹式呼吸、丹田呼吸を意識するのではなく、「消す」というわけである。これは忍者とかの「気配を消す」に近いようなイメージであった。
その後は、有名になっているヒモトレの実演。
ひもをやわらかく締めたり、たすきがけにしたり、足や手首にかけたりするだけで、屈伸で床から10cmぐらいまでしか届かなかった人がペチャっと床に着くようになったり、歌手やヴァイオリンやテルミン(!)の演奏者の音を聴きながら、「では肩にもかけてみましょう」「あ、こちらにもかけてみましょうか」とヒモをかけていくだけであれよあれよと出音が確かに響き豊かに変わっていく。
途中、こういう姿勢で、とかここを意識して、とかの指示はなく、とにかくヒモだけかばんいっぱい大量に用意してあって、サッサッとかけたりちょっと結ぶだけなのだ。
こりゃ摩訶不思議、と魔法のような感じであった。
演奏公開レッスンの前にも、座ってる人を持ち上げるというのがあって、何もしていないビフォアーはフルパワーでうんこらしょ!とやっとのことで持ち上がるのが、ひもをちょろっと結んだだけで、さっと人が持ち上がる、という実習もあった。

テコの原理のような物理的原則に則って運動すると少ないエネルギーで運動することができる、というような現象がある。
人間の身体には、そういう無駄な力やエネルギーを使わず、強力なパワーを発する機能や筋力が本当はたくさんあって、現代人はその機能がかなりoffになっているのではないか。
その機能や筋力を意識させてonにするのがこのヒモなのでは、と自分の観た感想ではそう感じた。

実際上述のビフォアアフターを2回繰り返す時があり、その時ヒモをかけた後、もう1度ビフォアーの無駄な力が入る状態にもどすために別の運動をしてもらい、「はい。これで(無駄な力が入る)元の状態にもどりましたのでもう1回ヒモをかけてみましょう」というヒモ効果をリセットするという印象的なシーンがあった。
逆にいえば訓練や習慣化をすると、常にそのような機能をonにできるのでは、ないかと思う。

こういうものは文章を読んでもなかなかわからず、ノンバーバルコミュニケーションの部分の情報量がすごいく多いので、ご本人が同じ部屋にいて動いている、というだけでかなりの情報量だったのでとにかく面白かった。
また現代の日本人の固定観念とはまったく違う世界なので、魅力的で新鮮だった。

一番印象的だったのは、このような動きは、昔の日本人は生活の中で自然にやっていて、それを子供が真似ていたので、意識せずとも習得していた、との解説。それが今は断絶されてしまっているとのこと。
たしかに甲野先生のような人が江戸時代、明治時代中期ぐらいまではたくさんいて、それが日本人の身体的強度をかたちづくっていたのではないかと思う。
実はこれは、日本人の身体性のみならず、音楽の習得にも関わる「音楽をする肉体の伝承」の話しであって、これはKPM、バッキバの廣瀬さんとよく話している題材である。
子供は大人の身体の動きを観て真似る、それがあらゆる世界の音楽の基本であり、根幹である。
なので大人がパーティーのたびに踊っていたり、礼拝のたびに歌っていれば、訓練とはまた別の素養が体にフィールして入るのである。
日本人が西洋音楽と対峙する時は必ずその「音楽をする肉体の伝承」の欠如に対する補充の様式が必要となってくる。
そのような意味でも「音楽家のための身体操法講座」は日本人の身体性の復帰への問いかけに満ちたわかりやすい講座だった。

講座の最後の方でテルミン奏者が公開レッスンを受けたのだが、その時甲野先生も是非、ということでテルミンを演奏。甲野先生がテルミンを演奏するのはもちろん初めてなのだが、武術家だから体がまったくぶれず、音程がビチっと一発でねらったところに当たる。これはなんとも説得力のあるすごい景色だった。


[PR]
# by 11piano | 2017-11-13 09:50

「君の名は」を観る。

この前遅ればせながら「君の名は」をDVDで観る。
さすがに評判通りの傑作で感動した。
構造(つくり)は『超』が着くほどの日本では昔からあるもので、日本人のハートをつかむには絶対外れなしの構造である。
昔と言っても近松門左衛門とか忠臣蔵とかのアフター徳川ではなく、ビフォア室町みたいな、もうちょい昔からのテーマである、霊界=異界との交信である。
かなり古いところだとイザナギ、イザナミのお話しとなり、もう少し近代に近いところだと世阿弥の夢幻能だろうか。
夢幻能的な世界を前景化した作品としては、「魔法少女まどか☆マギカ」も印象的であるが、他にも浅田次郎さんの「鉄道員(ぽっぽや)」や「地下鉄に乗って」も「君の名は」に似た構造である。
SFのパラレルワールドやタイムトラベルものとこのような夢幻能型のどこが違うのかというと、SF系は肉体=存在の「移動」に重点が置かれているが、夢幻能系は肉体はもともとの存在や場所に固定されているのだが、異界との通信のみが内面でおこなわれる、という点である。
日本人は祖霊信仰の傾向が強いので、どんな年齢層の人でも、異界との通信は潜在的に得意なのである。
基層にそのような型があり、上層には菊田一夫さんの方の「君の名は」大林宣彦監督の「転校生」もあり、以前からの話しの原型がフラクタル構造的に重なっている。
これはシェークスピアの作品や、ジョージ・ルーカスがスターウォーズを世界中の神話や有名な話しを集積して構築した、等の話しで知られているようにスタンダードな方法である。
日本人的には、そこで古代からのお話しスイッチが入るのだが、話しが現代なので、なんというか2重のトリップ感があるのだろう。
高畑勲監督の「かぐや姫」も異界からきた主人公が異界に帰る話しだが、観る側としては昔話だから、というのがありトリップ感がシングルなので、現代を舞台にしている「君の名は」ほどの足元がぐらつくようなスリルというのはないのである。

というわけで個人的には、構造的にはそういう普遍性を感じたのだが、新海誠監督の画力やストーリー力はそういったフラクタル化された構造とはまた別個にすごい卓越した力と説得力を持っていた。
特にこういう感じで空気感というか、雰囲気感をアニメで表現するというのは、21世紀の今でしか表現できないものであり、日本アニメ界の蓄積の上に成り立つ金字塔的なものだと思う。
宮崎駿監督の「風立ちぬ」では、ストーリーの起承転結はあわく後景化しているのだが、その時代の雰囲気や、軽井沢のホワっとした雰囲気、というのをアニメーションの力で封じこめ、その雰囲気をアニメーションでしっかりと表現していた。
この雰囲気を封じ込める、というのは「ずっと夏」というエヴァンゲリンの空気感のあたりからはじまっているような気もする。
さらに新海誠監督は、夏の空気感や田舎と都市の空気感のみならず、ティーンネイジャーの持つ空気感すらも封じ込めることに成功し、観客をその空気感の中に引き込んでいるのだ。
これはやはり実写ではなかなか難しいところで、それを現在の日本のアニメは可能にしていて、これはどちらかというとARとかVRとかに近い感覚だと思う。
今までは小説などを読んで没入した際に到達する世界に、アニメを観ることだけで到達することができるになった、というような気がするのである。


[PR]
# by 11piano | 2017-08-19 14:06

「上手と下手」(かみてとしもて)について。

舞台まわりの業界用語である「上手と下手」(かみてとしもて)についてである。
この呼称(客席から見て)「右手と左手」じゃあかんの?と時々自分でも使いながら思う。
どう見ても上下ではなく、右左だからである。
英語だとHighStage、LowStageではなく、StageLeft、StageRightとなる。
しかもこの呼称は中型以上の左右対称のホールを暗黙の了解的前提としており、コンテンポラリーな円型劇場で、演者が真ん中だったりすると機能しにくい。

よく知られているとおり、この用語は能のステージに出自がある。
能舞台は客席から見て右寄りに舞いを舞う舞台があり、左から中央に演者が登場する廊下がある。
左右非対称で、まさに上の方に座するステージに上がる雰囲気で、まさに上手と下手という呼び方がしっくりくる。

そのようなステージイメージに近い吉本新喜劇や寄席のようなジャパンな場ならよいが、現代的なホールでおこなわれる西洋なイベントで、上手、下手というのはイタリア料理店やHubみたいなイギリス風パプで「ささ、上座はこちらです」と言っているのに近いものがある。

この辺りの言葉の綾はなかなか面白く、野球でもセンターやレフトはセンターやレフトで中堅手とか左翼手とは言わないけど、三振は三振で、原語のStrikeOutとは言わない、など似たような例はいくらでもある。

こういう業界の呼称の慣習というのは規定で決まっているわけではないので、いつの間にかそうなっていていつの間にか変わっていくものかもしれない。
ただネット上では「上手と下手ってどっちですか?」「上手と下手はこう覚えた」等の書き込みがあり、覚えなければいけないほどナチュラルなものでないならばより多くの人にとってナチュラルな右手左手でもいいのではと思うのである。

能のストーリーのように、日本人が上手と下手の間に神道的な、儒教的な霊魂や気の流れを無意識に感じ取っていてその呼称が続いているのならオイラ的にはグッとくる話しなのだが。

とここまで書いて、右左だと、ステージ上の演者と客席からみた右左が逆になるからわかりにくいので、やはり右左以外がいいとのご指摘を多数をいただいて、それはまったくそのとおりだなと思ったのである。
[PR]
# by 11piano | 2016-11-17 12:41

『京都ぎらい』を読んだ。

新書大賞もとって人気があるという新書『京都ぎらい』を読んだ。
けっこうグッときたし面白かった。

まずは「全国的に有名な?」あの京都洛中の人の他のエリアへの侮蔑ネタの紹介から始まる。
もちろん同じ京都でも、嵯峨や宇治なんかは近親憎悪的なものもあり、特に顕著らしい。
著者は嵯峨出身で、現在宇治に住んでいるのだが、洛中の著名人に「昔は嵯峨の方からよく肥えをくみにきましたなぁ」と言われたり、「あのへん(洛外)は言葉づかいがおかしかった。まねをしてよう笑いおうたもんや」と言われたりしたエピソードや、宇治のプロレスラーが京都公演をした時「京都に帰って地元京都でプロレスができてうれしいです!」とマイクパフォーマンスしたところ、「宇治なのに京都言うな!」とかなり多くの野次がとんだエピソード等色々まさにそれっぽい話しが紹介されている。
こういう侮蔑というのはいわゆる田舎っぽい、というか前近代っぽい感じが逆にしてしまうのだが、多くの伝統的美や芸術的美というのは、洋の東西を問わず、このような前近代っぽさや田舎っぽさなくしては生まれえないとも言えるので、このような資質はやはり日本の伝統美として守っていく必要があるのではないかなぁと思ったりもする。
実際この本では、江戸時代は京都の寺社仏閣が江戸幕府の経済的支援のもと、修復、運営がされていたりとか、現代においては東京のメデイアが「京都らしさ」「京都はすごい」とメデイア構築することにより、より京都は京都らしくなり、洛中の人が高飛車になるという構造も細かく解説している。
というように「京都らしさ」が「非京都的世界」によって構築される、というような構造が面白い。
いずれにせよ突出した美的世界というのは、恣意的に構築されるものであって、そう考えると他の色々なものも同じなのだろうと思う。



[PR]
# by 11piano | 2016-06-02 19:05

『夢は必ずかなう 物語素顔のビル・ゲイツ』というのを読んだ。

この前『夢は必ずかなう 物語素顔のビル・ゲイツ』というのを読んだ。
スティーブ・ジョブズの映画はけっこう有名だし、本もたくさんあってオイラも大好きである。
ところが、ビル・ゲイツの本というのはもちろんあることはあるけど、どちらかというビジネス書の範疇みたいな感じで、ジョブスみたいにグワッと熱い本というのはあまりない感じである。
というのも2人は同時代とはいえ、かなりキャラが違うので当然と言えば当然なのだ。
ビル・ゲイツは政治家や銀行の重役を輩出した家系で、お父さんも成功した弁護士、お母さんも財界や政界にコネクションのあるいわゆるアッパーミドルの出身、大学がハーバードということで、けっこうなんというか、色々豊かな感じ。
ジョブズはWiki見ただけでも、本当の親は移民のイスラム教徒だった関係で、正式な子供として育てられなかったためジョブズ家に養子に出したが、ジョブズ家と本当の親がもめたとか本当の親とジョブズずっと会うことはなかったとか、ちょっと複雑そうで、どっちかというロックミュージシャンとかにありそうな感じの出自である。
あとはインド瞑想とか禅宗とかヒッピーぽい感じとかもジョブズとかなり違う。
出自というのは、業績とかどのくらい活躍するかには全然関係ないけど、性格形成や思想形成には関係がある。
ジョブズのようにアップダウン激しい方が思想的には深まり、アウトプットのエネルギーも高くなるのかなぁと思う。
また、ビル・ゲイツはプログラムを自分でつくって書いて、というのをやっていて、この本のような伝記でもとにかく朝から晩までハンバーガー食べてコーラ飲む以外はずっとプラグラムをつくっているシーンが大半である。これはこれでほんとうにすごいのだが、たしかに映画とかドラマにはなりにくいのかなぁと思う。
それに比べるとジョブズの方は、テクニカルの方は天才ウォズニアックがほとんどやってる感じで、ジョブズはアイデアの閃き、人をオルグする力、交渉する力などのシーンが多くて、戦国武将っぽい感じカリスマ感がすごい。
さらにジョン・スカリーやマイク・マークラとのそれこそ戦国武将的な確執などもあってかなりドラマティックだ。
というようなドラマ受け、という面もあるのだろう映画・映像作品もジョブスの方はけっこうヒットした『スティーブ・ジョブズ』があるが、ビル・ゲイツの方は『バトル・オブ・シリコンバレー』という映画に少し出てくるだけである。
あの『バトル・オブ・シリコンバレー』もなんとなくジョブズの方がメインという雰囲気ではあった。
ただ『バトル・オブ・シリコンバレー』もパソコンの発展を俯瞰するにはわかりよい映画だった。
あと全然関係ないが、『ソーシャル・ネットワーク』だったかな、にも出ていたアメリカの大学の新入生向けのなんか変な「クラブ入会いじめしごき」みたいのの描写がどちらの映画にもあったのだが、あれはなんなのか興味があるのでまた調べてみたいものである。

ということでビル・ゲイツのことももっと知りたいなということで読みやすそうな『夢は必ずかなう 物語素顔のビル・ゲイツ』という本を読んでみた。
本のタイトルは中学生向けっぽい感じなのだが、内容はビル・ゲイツというよりも、パソコン誕生の黎明期のドキュメントと言えるもので、こういう展開になると興奮せざるを得ない。
ということでとてもエキサイティングで面白い本だった。
世界発の廉価版パソコンアルテア8800を開発したMITSエド・ロバーツとのアルバカーキでの出会いから、嶋正利さんのインテルのマイクロプロセッサ8080の登場、そして、すでにOSの開発をしていたゲイリー・キルドールがIBMとすれ違ったことにより、ウィンドウズの元となるOSのMS-DOSを開発するチャンスを得たこと、ジョブズも感嘆したウィンドウ、マウスシステムも開発したゼロックス・パロアルトのアラン・ケイとの出会いなどパソコン発展の歴史が少しづつわかりやすく描かれていて感動。
特に最初期、紙で2進法を穿孔テープに打つというものだったのが、マイクロプロセッサに膨大な情報を書き込めるようになる、というあたりの流れは今見ても神がかっている。
ホントの初期のバカでかいパソコンに1+1みたいなのの送るだけで何分もかかって、また答えがくるまで何分もかかって、タイプライターで答えの「2」が印刷される、みたいなのにビル・ゲイツが初めて接して興奮するところなども、世界の色々なものがはじまった時の発明の原初の興奮を感じて手に汗握ってしまう。

感想のまとめとしては

1.音楽業界とか美術業界だと作曲家とか画家とかバンドのリーダーとか、創作というとなんとなく個人をイメージしてしまうのだが、ジョブスにウォズニアックやマイク・マークラが、ビル・ゲイツにポール・アレンやスティーブ・バルマーがいるようにチームの力が重要だなぁということ。

2.初期のコンピュータプログラムはパンチカードで読み込んでいたのだが、このパンチカードの紙や穿孔機(パンチカードマシン)自体がけっこう好きなのでけっこう萌える。
この本を読んでいても、ビル・ゲイツがものすごい量の鑽孔テープの紙の束と穿孔機で孔を開ける音に囲まれていたという話しのところでかなりグッときてしまう。
最近はなんでも動画があるもので、アルテア8800がパンチカードを読んで作動する動画があり、また萌えてしまうのである。
[PR]
# by 11piano | 2016-05-15 14:34

『世界はこのままイスラーム化するのか』を読んだ。

最近ロンドン市長が、イスラム教徒のサディク・カーンさんになったというニュースがあった。
だからというわけではないが、しばらく前に読んだおなじみ島田裕巳さんと国際的にも有名なイスラーム学者中田考さんによる共著『世界はこのままイスラーム化するのか』はとても面白かった。
イスラム学者というのはけっこういるのだけど、中田さんのようにリアルにイスラム信者でなおかつイスラム学者、というのは意外にも珍しいらしい。
そのような色々なイスラムのトレビアももちろん面白かったが、イスラムのしっかりとした根幹的思想もわかり、かなりわかりやすい、勉強になる本である。
この本にも書いてあるとおりイスラム教徒はじわじわと増えているらしい。もちろんISのような過激な集団ではなく、いわゆる一般のひとたちが、ということであるが。

イスラム教徒の人口比率ということでいうと一番多いのがインドネシア、その次がインドとインド周辺、そしてアフリカ、そして、われわれが想像するいわゆるアラブの中近東の国々という人口順になるそうだが、ヨーロッパでもエリアによってはイスラム教徒の方が多いエリアもあるらしく、以前イスラムの王朝になったことのあるスペインは相当警戒しているらしい。

他にも肌を隠す、等は絶対禁止ではなく、そのような記述がクルアーンとハディースの中にあり、それをどう解釈するかはそのコミュニティの法学者の解釈や、その個人の解釈によるところがある。
とか、
お金を貸す時利子をとることは禁じられている。
とか、
キリスト教や仏教のように出家するというタイプの聖職者はいなくて、近所のおじさんの中の信頼されている詳しい人が、クルアーンとハディースの解釈をする、みたいな感じ
とか、
ご飯をおごる、とかは喜捨に該当するので天国いく時のポイントになる。ので3人がご飯を食べにいくなら、1回で割り勘にしてしまうよりも、月曜日はAさんが全部おごって火曜日はBさんが全部おごって水曜日はCさんが全部おごると全員天国ポイントがアップするのでお得だという話し
とか、
カリフ制というのは、カリフがクルアーンとハディースを代表して解釈しながら統治するのがイスラーム国家としてはひとつの理想で、今のようにいくつか国があって、その国ごとによって権力者がいて統治しているのは本来的には違う、ということ。
とかなるほどなぁというところもたくさんあった。

中田さんが強調していたのは、イスラム教というのはとにもかくにもアッラーと預言者ムハンマドと信者個人との関係が重要なのであって、組織や国はあんまり関係ない、という部分で、そういう意味では現在のイスラームはけっこう違っちゃってるんだよぉ。
ということであった。

そして一番うぉぉ!これはウチらと全然違う!と思ったのは、その時間軸と時間の考え方だった。
基本的にアッラーがムハンマドに預言を与えた時代が最高で、ムハンマドから時代的に離れれば離れるほどどんどんイマイチになっていく、という時間解釈らしい。
要するにアッラーとムハンマドにどれだけ近づけるか、というのが重要で時間はあまり関係ない。
ダーウィンの進化論ももちろん論外だし、ヘーゲルやマルクスみたいな、時代が新しくなるにつれ、人間はどんどん反省して、どんどん止揚されて、技術は発達してみんなよくなっちゃうよ~んという歴史観とかはまったく関係ないということだ。
これには色んな時間の考え方があるんだなぁとちょっとびっくりした。
[PR]
# by 11piano | 2016-05-10 17:54

日本橋七福神を参拝!

今日は初めて日本橋七福神を参拝した。
比較的近所で、合計距離も少ないので、いつでも行けるだろうとなんとなく まだまわっていない七福神であった。
また、まだまわっていなかったもうひとつの理由はこの小伝馬町、人形町、馬喰横山、茅場町、鉄砲洲、八丁堀エリアはかなりたくさんの碁盤目の道が磁石の南北と斜めの向きに、それも複数の斜め向きに なっていて、移動距離が短くても手強い、位置特定が面倒なエリアだからなのである。
自分の印象では、東京都23区の中ではこの碁盤目が斜めに交差する日本橋周辺と高低差のある小道が細かく分布する谷中周辺が、方向がわかりにくくなる2トップのような気がする。
コース全体はアルファベットのU字型になっているので効率的にまわる場合、左端の新日本橋駅~水天宮前周辺~浜町駅コースか右端の浜町駅~水天宮前周辺~新日本橋駅コースで行くかたちになる。
自分は今日は左端の新日本橋駅周辺の椙森神社、寶田恵比寿神社からまわった。
全部まわるのに1時間30分ぐらいであった。
基本的に商社ビルのたちならぶコンクリートジャングルの中を歩く感じである。
また水天宮以外は、神社といえどほとんど普通の一軒家ぐらいの面積しかなく、ちゃんと探さないと通過してしまいそうな神社もあり、土地代の高さを感じさせる。
とはいえ、これだけアクセスのよい東京のど真ん中で、ご利益パワーの強い七福神を参拝できるのはうれしいし魅力的だ。

「小網神社(福禄寿)」
「茶ノ木神社(布袋尊)」
「水天宮(弁財天)」
「松島神社(大国神)」
「末廣神社(毘沙門天)」
「笠間稲荷神社(寿老神)」
「椙野森神社(恵比寿神)」
「寶田恵比寿神社(恵比寿神)」
[PR]
# by 11piano | 2016-05-08 16:09


超絶トランスピアニスト岡野勇仁のブログっす~。 http://www.11piano.com/
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30